行雲流水 〜お気に召すまま〜

好きなことを好きなように好きなときに書くブログです。

観たいものが目白押し

今日は観たいものが被りすぎる!ということで、ネットでも騒がれていました。

 

まず、『古畑任三郎』。
私も子どもの頃大好きでした!再放送とかでほんっとによく観てました。

 

このドラマの面白いところは、冒頭の時点で犯人が誰かを視聴者にもわからせるということ。
そこを田村正和さん演じる古畑任三郎がじわじわと追い詰めていくわけですが、その心理戦が毎回本当に見ものです。

 

SMAPイチローさん、明石家さんまさんなどなど、毎回「え?」と思うような方が犯人役でゲスト出演していて、とても楽しみでした。

 

このドラマ自体、放送時期がかなり古いものだとは思うのですが、不思議なもので内容とか覚えてるんですよね。
それだけ印象的なドラマだったということでしょうか。

 

やはり古畑任三郎の独特のあの口調と性格、そして一度聴いたらなかなか忘れることのできないテーマソングが、人気の秘密なのかもしれません。

 

西村雅彦さん演じる今泉くんが本当に愛されキャラで、刑事としては向いてないけど時々事件の核心をつくようなことを言うのが好きでした。
石井正則さん演じる西園寺くんとのコンビも絶妙です。

 

今日放送されたのは、松嶋菜々子さんが犯人役。
もう何回も観たから内容も結末も知ってるけど、松嶋菜々子さんを拝見して思ったのは、とにかくめちゃくちゃ美しい・・・。
今の姿と当時の姿を見比べてみても、ほんとに歳を重ねていってるの?と首をかしげたくなるくらい、今も昔も変わりません。

 

・・・・・・田村正和さん、ニュースで訃報を知った時はとても驚き、そしてショックでした。
やはり自分が子どもの頃から拝見している方が他界するのは、とても悲しいことです。

 

数多くのドラマで活躍されていましたが、私にとってはやはり古畑任三郎がサイコーです。
田村正和さん、ご冥福を心よりお祈り申し上げます。素敵なドラマを、ありがとうございました。

 

変わって、お次は『アラジン』の話。
先週までの『タイタニック』に続き、今日の金曜ロードショーも楽しみにしていました。こちらは古畑任三郎が終わってから途中参戦。

 

実のところ、この映画が公開された当時は観てませんでした。
ものすごく話題になっていたことは間違いないんだけれども、私はちょっとひねくれた人間なので、みんなが観ているものをその時に観たくない人間なんです(笑)
どうせいつかTVとかでやるだろうという考えで、基本的には後から一人でひっそり楽しむタイプです。今回もそんなクチでした。

 

『アラジン』のアニメ映画は実家にビデオがあったので、これまた子どもの頃よく観てました。ヒマさえあれば観るくらい、好きでした(笑)
アニメでは馴染みがあったけど実写はどうも・・・という気持ちもあって、私が当時映画館に行かなかったのはそこにも理由があります。

 

しかし、今日初めて実写版で観てみて、認識を変えました。

 

・・・・・・ごめんなさい、正直なめてました。面白すぎます。ウィル・スミスが本当にハマり役。山ちゃんの吹替えサイコー。

 

気づいたら夫も隣で集中して観てました。そして終わって一言、「この映画おもしれぇ」。

 

夫は映画とかにはあまり興味がなく、ましてディズニー映画ともなるとまるで見る気もしないような人間なのに、そんな夫が!『アラジン』には心動かされたようです。

 

ジーニーを褒めちぎってたので、やはりキャスティングというのはとても大事なことなんだなと思いました。
確かに、ウィル・スミスは素敵です。ジーニー役サイコーでした。もはやジーニーが主役ですよね(笑)

 

そして、劇中で流れる「A Whole New World」。とても美しくて素晴らしい歌です。
魔法のじゅうたんで大空の旅なんて、ロマンチックすぎますよね。
あんなふうに連れ出してくれる人がいたら、相手が誰だろうとそりゃもう恋に落ちないはずがありません。

 

今日は仕事でものすごく疲れたけど、とても楽しい夜を過ごすことができました♪♪
たまには本をまったく読まないこんな一日も、あってもいいものだなと思いました。

 

 

読書感想:『マレクとマリア』

ヴァルトラウト・レーヴィンの『マレクとマリア』(さ・え・ら書房)を読み終わりました。

 

作者について

1937年、ヴェルニゲローデ(中部ドイツ)生まれ。ベルリン在住。歴史小説、伝記物語、推理小説、児童読み物など、多彩な作品を数多く発表。ラジオドラマ、ロックオペラ台本も手がけ、またオペラの演出家としても活躍している。

引用元:ヴァルトラウト・レーヴィン『マレクとマリア』(さ・え・ら書房

 

概要

舞台は、第二次世界大戦下のドレスデンナチスによる支配の真っ只中、いのちがけで愛しあう二人の男女がいた。しかし、それは決して周囲に知られてはならない重大な禁止行為だった――ポーランド人の強制労働者マレクとドイツ人の娘マリアの恋愛を描いた物語です。

 

内容紹介

マリアはドレスデンから田舎町のコスヴィヒに疎開してきた少女。この町の祖父母の元で暮らしています。

 

1945年2月13日、その日はマリアの母の誕生日でした。母はドレスデンに住んでいるので、そこに戻る立派な理由ができました。
マリアにとっては、町に戻る理由がもう一つありました。マレクに会えるからです。マレクは、ポーランド人の強制労働者。ドレスデンの農場で働いています。

 

二人が出会ったのは、去年の夏。二頭のシェパードを通して知り合いました。マリアははじめマレクのことを警戒します。

 

 二頭のドイツシェパードより、この男のほうがよっぽど恐ろしいのでは? マリアは学校でおしえられたことを思いだした。彼らはみなひきょうで腹黒い。なまけ者で執念ぶかい。アーリア人をにくんでいる。彼らは不潔だ。――そう、この男は不潔。手は泥だらけ。つめはまっ黒。――さわれば病気をうつされるかも。彼らは・・・・・・。

引用元:ヴァルトラウト・レーヴィン『マレクとマリア』(さ・え・ら書房)、19ページ 

 

しかし、目の前にいる男は穏やかな微笑を浮かべており、いつしかマリアの心からこわさも警戒心も消えていました。
マレクはマリアに農場の食料をこっそり渡し、またここにくればいいと言いました。そして、今日の出来事を秘密にするように、とも。

 

・・・ドレスデンへ向かう汽車の中で、マリアはマレクと過ごした日々を思い出していました。

 

マリアが再び農場に向かうと、マレクは自分が住んでいるという小さな家にマリアを招待します。
そこには、マレクがマリアのために密かにとりのけておいてくれたニンジンがありました。
マリアは、自分がニンジンにつられてやって来たのだとマレクが思っているのではと考え、そうではないことを必死に訴えます。一方のマレクは・・・。

 

 マレクがうつむいた。「ぼくだって、あなたがニンジンだけにつられて来るだろうなんて、思いたくなかった」低い声だ。「でも、もしそうだったらと不安だった」
 マレクがなにかをふりはらおうとするように、目の上をこすった。「ジェンキ・ボグ」
「なんていったの?」
「あなたがきてくれたことを、神に感謝したんだ。だけど、これは大きな危険」

引用元:ヴァルトラウト・レーヴィン『マレクとマリア』(さ・え・ら書房)、37~38ページ

 

その日から二人は恋人どうしになりました。
しかし、それはマレクの言うとおり、大きな危険をはらんでいました。見つかればマレクは殺される・・・のみならず、女性側にとっても危険でした。

 

まともに見てはいられないシーンだった。若い女たちが檻のようなものに入れられていた。頭を坊主にされ、首に<わたしは外国人と、民族の恥となる行為をしました>と書いた札をさげていた。しかし、マリアにとって、それはどこかよその世界のことだった。

引用元:ヴァルトラウト・レーヴィン『マレクとマリア』(さ・え・ら書房)、41ページ

 

マレクのような「外国の下等人種」とドイツ人の女性との恋愛は、絶対的な禁止行為とされていたのです。

 

・・・汽車を降りて、マリアはマレクの働いている農場へと向かいます。しかし、マレクはなかなか見つかりません。
マレクは農場の車で配達の仕事をしています。彼がどの道順でまわっているのかマリアは考えようとしました。

 

その時、マレクの車が停まっているのが見えました。間違いなく、マレクの車です。
マリアは周りに人がいないことを確かめて荷台に乗り込んで待っていると、ようやくマレクが戻ってきました。
マリアに会えるのはマレクにとってももちろん嬉しいことです。しかし、同時に心配でもありました。あまりに危険すぎるから。

 

加えて、マレクは農場に戻らなければならない時間がせまっていました。やっと会えたのに、なんとしてもマレクと一緒にいたいマリアは、自分の家へ行くことをすすめます。今は母が一人で暮らしている家へ。
母は仕事で7時半前に戻ることはないとマリアは言います。部屋に入り、食べ物でおなかを満たし、そして二人はそのままベッドへ・・・。

 

・・・鍵束がドアに当たる音でマリアは目を覚ましました。母が帰ってきてしまったのです。
母は二人を見て驚きを隠せません。娘がポーランド人の強制労働者とベッドをともにしていたのですから。

 

母はマレクを追い出そうとします。マレクは素直に従いました。
マリアには家にいてほしいという母ですが、しかしマリアの心はすでに決まっていました。マレクに父の服を渡して変装させ、二人で家を後にしました。

 

二人の行く先は、どこにも決まっていませんでした。マリアは、とにかく乗れる汽車の切符を買おうと言います。
マレクは言葉を話すとドイツ人ではないことが周囲にわかってしまうため、「空襲で生きうめになったショックで口がきけないマリアの兄」ということにしました。

 

うまくいくはずがないと心配するマレクに対し、マリアはうまくいくと言い張ります。
そんな時、警戒警報のサイレンが鳴り響きました。ドレスデンでは頻繁にサイレンは鳴るものの、実際に空襲にあったことはなかったのです。

 

「駅――よくない。空襲するときは、いつでもまっさきに駅だ」
「でも、空襲はないのよ」
「きのうまではなかった、ということだよ」
「それがどうして今日になって、急にあるの? 行きましょう。だいじょうぶよ。どっちみち切符を買わなくちゃならないもの」

引用元:ヴァルトラウト・レーヴィン『マレクとマリア』(さ・え・ら書房)、122ページ 

 

ついにその時はやってきたのでした。ドレスデンの町に、空襲警報が鳴り響きます。
人びとに混じって逃げる二人。町の広場に来ると、そこには人が集まっていました。しかし、どこか異様な空気で、おかしな人間ばかりが集まっているように見えます。

 

広場でマリアに話しかける人物がいました。マリアはすっかりおびえきっています。マレクはつい自分のアクセントを忘れて口を挟んでしまいました。
その言葉を聞きつけて、徐々に声の主が興奮し始めます。その声の主は、ホテルの厨房で働いている女でした。マレクの顔を思い出した料理女は、憎しみをこめてマレクを「ポーランド野郎」呼ばわりしました。

 

再び鳴り響く空襲警報。地下室へと避難する人びとに混じり、料理女も避難しようとします。

 

 マレクとマリアはとりこのされて、どうすればいいのかきめられない。けむりとほこりの中で窒息しそうになった、あの熱い地下室にもどるか。それともマリアがいうように、このまま外にいるか。
 そのとき、料理女がふりむき、顔をゆがめてマリアにいう。「ねえ、あんただけは連れていく。でもポーランド野郎はあの地下室へははいらせない」
 女がマリアの腕をつかむ。マリアがふりはなす。「いやよ!わたし、行かない!」
 女は首をふる。すすでよごれた顔の中で、目がぎょろりとにらむ。「いってみただけだよ。そっちがいやなものを、むりになんていわないよ」

引用元:ヴァルトラウト・レーヴィン『マレクとマリア』(さ・え・ら書房)、141ページ

 

二人は町を走り続けました。二回目の空襲の第一波が町を通り抜ける頃、マレクがつぶやきます。

 

「当然のむくいだ」
 ――中略――
「その言い方、ひどいと思うわ、マレク。こんな目にあって当然なんて、だれについていえる?爆弾を落とされてるのは女たち、老人や子どもたちなのよ。そういう人たちにとっても、これが当然だっていうの?」
 ――中略――
「そうかな」マレクが静かな声にもどっていう。「ぼくはそれほどひどいことをいっているつもりはないよ。ただね、今、復讐の天使によって、頭の上に火を落とされていながら、まだポーランド野郎は地下室へは入れてやらないという人たち、その人たちはひどくはないの?」
「みんな、そうおしえこまれたからよ、マレク!」
「おしえをまもっているってことだね。血もかよわない石の心臓で」

引用元:ヴァルトラウト・レーヴィン『マレクとマリア』(さ・え・ら書房)、145~146ページ

 

再び始まる空襲に、走り続ける二人。途中、二人はまた言い争ってしまいます。マレクは、自分でも自分がわからなくなっていました。

 

自分と一緒にいればマリアにも人びとの憎悪が向けられてしまう。自分は下等人種であり、その下等人種を助けることはマリア自身もつかまってしまうことになる――マレクは、自分がマリアからはなれるべきであることを告げます。

 

嫌がるマリアの手をふりほどき、マレクは行ってしまいました。

 

ひとりになったマリアはエルベ川まで逃げてきます。この川沿いの運動施設は爆撃を免れ、救護テントも立てられていました。
あれから何時間経ったかわかりません。マリアは川沿いの段々で座っている人の中にマレクを見つけました。

 

マレクもマリアのことが心配で仕方ありませんでした。再会を喜ぶ二人。しかし、マレクは肩にけがをしているようでした。
救護テントに向かい、マレクはすぐに医者に診てもらえることになりました。

 

処置が終わって看護婦が診療室から合図すると、マリアは中へ入っていきました。
マレクは担架で気を失っていました。看護婦がマリアに話しかけます。

 

 ――中略――「お兄さんは口がきけないふりをしてるだけってこと、ばれないように気をつけなさいね」
「どういう意味ですか?」とマリアはとぼけたふりをする。
「うん、まあね。治療のときさけんだことばが――ドイツ語でないような気がしたものだから。わたしだってめんどうなことになりたくないのよ。わかる?」
 マリアはうなずく。
 相手はマリアのひざを指さす。「ほら、あんたのそこの傷につけるヨードの小びんをあげるわ。いうけど、いやなことばかりのこんな時代に、それでも見ててちょっとほっとするものがあるとすれば、それは愛しあってるカップルよ」
 看護婦はちょっと笑顔を見せ、また人さし指で眼鏡をなおして出ていった。

引用元:ヴァルトラウト・レーヴィン『マレクとマリア』(さ・え・ら書房)、210~211ページ

 

意識を回復したマレクとともに、マリアは昔住んでいたロシュヴィッツの小屋に向かいます。ロシュヴィッツには爆弾は落ちなかったようでした。

 

ロシュヴィッツに着いたマリアは、マレクを待たせて鍵をもらいにいきます。万が一の時のために、おとなりさんのレオナルト教授に合鍵を預けてあったのです。
しかし、教授は不在のようでした。仕方なくマリアはマレクの元に戻ります。目線を下にうつすと、変わり果てた町の姿が目に入りました。

 

 マリアはことばもなく立ちつくす。のろのろと手をあげ、指をのばす。「あれは――あれはなに?どこに――どこに聖母教会はあるの?オペラ劇場は?どこ?どこへ行ってしまったの、わたしの町は?」
 マリアは泣きだす。すすり泣きではなくて、号泣。体の奥からほとばしり出て、とめようもない嗚咽。ちぎれちぎれのことばがまじる。「ああ、神さま・・・・・・わたしの町・・・・・・ママ・・・・・・いやよ・・・・・・うそよ!こんなの、うそ!」

引用元:ヴァルトラウト・レーヴィン『マレクとマリア』(さ・え・ら書房)、229ページ

 

なおも聞こえる空襲の音・・・しかし、飛行機はロシュヴィッツが狙いではないようでした。マリアは目をつぶり、耳をふさぎます。
マレクは、破壊しつくされたドレスデンの町にさらに火柱があがるのを、ただ身をかたくして見つめていました。

 

再び小屋の鍵をもらいにいくマリア。小屋には先客がいましたが、それはマリアのおさななじみのデトレーフでした。
デトレーフはにやにや笑いを浮かべながらマリアに近づいてきます。今にもマリアに手を出そうとするとき、恐る恐るマリアが目を開けると、デトレーフは地面にのびていました。マレクが後ろから殴ったのです。

 

彼は死んではいませんが、しかし放っておくわけにもいきません。この男をどうするか考えてあぐねていると、戸口に立つ人の影がありました。
それは背の高い老人で、この人こそがマリアのいう「おとなりさん」のレオナルト教授だったのです。

 

驚いたことに、マレクとレオナルト教授は顔見知りのようでした。
ひとまず小屋の中に入り、ホッと息をついたのも束の間、マリアは疲労で眠りに落ちていきました。

 

マレクとレオナルト教授がどういう知り合いなのか――教授はマリアに話すつもりはありませんでしたが、マレクはできるだけ本当のことを話してやってほしいと言いました。

 

レオナルト教授が語る話に耳をかたむけるマリア。
マレクが一言もマリアにそのような話をしなかったことをマリアはひどく残念に思いました。
自分に話してくれていたら、自分にも何かできたかもしれない――。しかし、それはマレクの立場からみると、決して話すわけにはいかないことだったのでした。

 

教授は二人の今後について、当分の間は会わないようにすべきことをはっきりと告げました。
マレクは教授に迷惑をかけたくないと家を出ようとしますが、教授は阻止します。いま農場に戻れば、マレクは間違いなく収容所送りになる――生きて出られるかもわかりません。
教授はマレクを家にかくまうと言い、マリアには手続きが済み次第コスヴィヒの祖父母の元に帰るように説得を試みます。この狂気の時代が終わりを迎える日にお互いが元気で生きている姿を見るためには、そうするしかないのだと。

 

しかし、マリアも頑として聞きません。マリアはマレクと離ればなれになるのはもう嫌だったのです。
あきらめたように、教授はマリアにひと晩だけ泊まっていくように伝えます。

 

夜のひととき。二人は様々なことを語り合いました。
戦争が終われば、それでみんなは仲良くなれるのだろうか。
明日から別れわかれにならなければならないけれど、マレクがどんなにマリアのことを愛しているか。
ドイツ人とかポーランド人とか、そんなことを忘れてしまえないものか。

 

朝、マリアは役所に手続きへと向かいました。そこで耳にした恐ろしいことは、マリアを急いで小屋へと帰らせました。
マレクの姿も、教授の姿もありません。部屋中が荒らされ、壁に血痕がついています。
ブルーのカップの一つも粉々に割れていました。マレクが使っていたブルーのカップは無事でした。マリアはそれを、そっとバッグにしまいました。

 

・・・歳月が過ぎ、ひと組の男女がロシュヴィッツを訪ねる場面で、この物語は幕を閉じます。
女性は連れの男性に、ここでの思い出話を以前から何度も語って聞かせていたようでした。

 

 やがてテーブルについた女に、男がそっとたずねる。「ここへきて、よかったのだろうか?」
「ええ、よかったわ、あなた」女がきっぱりとこたえる。「よかったのよ。こなくてはいけなかったの」
 女の目には流れる水と橋、川辺の緑の上をさまよう。
 コーヒーがきた。大ぶりのカップだ。
「おや!」男がおどろいた声をだす。「このカップ!このブルーに白の模様。きみが大事にしているのと同じだね。あの古いカップ
「ええ、ほんとに」と女はこたえる。「家にあるのは、ひびがはいっているけれど」

引用元:ヴァルトラウト・レーヴィン『マレクとマリア』(さ・え・ら書房)、279ページ

 

感想

どこまでもマレクとの愛のために二人で生きようとするマリアと、マリアを愛するからこそ彼女から離れようとするマレク。
対照的な二人の姿がとても印象的な物語でした。

 

マレクは、ポーランド人の強制労働者です。「ポーランド野郎」と罵られ、「下等人種」と蔑まれ、農場主に殴られながら日々を生きていました。

 

彼はやがてドイツ人のマリアを心から愛するようになりますが、しかし彼はドレスデンの町が空襲を受けるのは、「当然のむくいだ」とつぶやきます。
そんな言い方はひどいと言い返すマリアに、自分をポーランド野郎と罵りそのポーランド野郎をこんな状況でも地下室に入れてやらないのはひどいことではないのかとマレクは問いかけます。
そういう教えを受けてきたと言うマリア。

 

・・・当時の教育が、いかに偏った狂気のものであったかに気づかされました。
戦争がそうさせたのかもしれないけれど、その戦争を起こしたのは人間です。恐怖で人を支配して、互いが互いを憎み合うように仕向けて・・・そんなことをして何を得られるというのか・・・まったく理解できません。

 

私は、戦争というものを知りません。
「戦争は二度と繰り返してはならない」なんて、私ごときが簡単に口にしてはいけない言葉なのかもしれません。
だからといって他に何かいい言葉が思い浮かぶわけでもありません。

 

でも、誰かと誰かが愛しあうのに○○人だからとか△△人だからなんて関係ないですよね。
「外国人は下等人種」だなんて、どうしたらそんな考えになるのか私にはどうしても理解できません。

 

・・・ちょっと話がそれますが、海外に行った人たちがよく「日本人だからというだけでバカにされた」と腹を立てているのを耳にしますが、そういう人ほど自分は外国人を下に見てたりしますよね。
中国人だからとか韓国人だからとか、アジアだから、アフロだから・・・心のどこかで見下してますよね。

 

結局、心のどこかで「彼らに比べれば」自分たち日本人は綺麗好きで真面目でマナーが良いと思いこんで自分たちは優秀だと勘違いして満足してるんだと思います。
でも、欧米諸国の人に対しては、これでもかとばかりにヘコヘコする。

 

この違いは一体なんなんでしょうね。

 

どこの国だろうと人間であることに変わりはないし、優秀な人もいればそうでない人もいる。良い人もいれば悪いヤツだっているのは、どこの国でも同じなのに。

 

ちょっとアツくなりすぎてしまいました(苦笑)
結局何が言いたいかというと、人と人が愛しあうのに民族とか人種の違いとかが障害になるなんてかなしすぎるし、外国人だから劣っているとか○○人だから優秀だとか、そういうのはナンセンスな考えでしかないということです。

 

残念ながらそういう考え方はいまだにあるし、自分でも気づかないうちにそう思ってしまっていることだってあるでしょう。
だからといって、戦争を起こしていい理由にはならないし、蔑んだり罵ったりする理由にはならないはずです。

 

愛しあう人たちが、いのちがけでなく堂々と恋愛ができるような世界――みんなが幸せに暮らせる世界になってほしいと、切実に思います。

 

料理の話

最近、鶏ささみにハマっています。

 

お肉の中で鶏が一番好きなのかというとそういうわけではありません(笑)
我が家で一番よく使うのは豚肉、次に鶏肉、牛肉は夫は大好きですが私があまり食べないので購入頻度はそれほど高くありません。

 

そういえば、私の実家(大阪)では、母が作ってくれた肉じゃがには牛肉が入っていたので、肉じゃがと言えば牛肉!みたいなイメージがずっとありました。
夫と結婚したばかりの頃、肉じゃがには豚肉を入れるということを聞いてすごく驚いたことを覚えています(夫は関東の人間です)

 

初めこそ戸惑いもしましたが、私はもともと牛肉より豚肉のほうが好きなので、今は肉じゃがとなると豚肉を使うことがほとんどです。
料理文化一つとっても関西と関東とで全然違うから、ほんと面白いなぁと思います。

 

・・・で、鶏ささみの話。

 

鶏ささみは料理するのが難しいというか作るものが限られてくるというイメージがあり、なかなかこれまで購入してきませんでした。

 

それなのになぜ急にハマりだしたかというと。

 

先日スーパーをウロウロしていたときに、タイムセールで鶏ささみが半額以下になっているのを発見したんです。
普段は豚バラ肉ばかり買う私ですが、この時はなぜかこの鶏ささみに目が釘付けになってしまい、思わず購入してしまいました。「衝動買い」というやつの典型です(苦笑)

 

買ったはいいものの実際どうやって料理したらいいのか検討がつかず、私がいつもお世話になっているクッキングアプリでいろいろ調べてみました。

 

すると、出てくる出てくる、おいしそうなメニューの数々。
そんな数あるメニューの中から選んだのが、こちら↓↓↓↓↓

 

鶏ささみときゅうりのキムチ和え 作り方・レシピ | クラシル (kurashiru.com)

 

きゅうりとキムチがちょうど家にあったのと、鶏ささみはレンチンするだけなので実に簡単にできちゃうということで、即決しました。

 

作ってみると本当に簡単で、しかもとてもおいしかったです。酒が進むわ~と夫も大喜びでした(笑)
このレシピを考案してくださった方に感謝です。

 

クッキングアプリは私にとって本当に心強い味方です。

 

私は実家にいた頃、料理というものをまったくしていませんでした。
大学生になって一人暮らしを始めてからは、マクド、スナック菓子+酒、毎回同じ具材の鍋、という不健康極まりない食生活でした(笑)
社会人になってからは、ご飯こそ炊くようになったものの、それ以外のおかずは決まってインスタントの味噌汁、シーチキン(好きなんです)、キムチ、たまに贅沢して刺身セット、冬場はやっぱり毎回同じ具材の鍋で生きてました。

 

そんなんだったから、夫と結婚するにあたり、私が一番心配だったのが料理です。
母もめちゃくちゃ心配してました。果たして、きちんと夫に栄養あるものを食べさせてあげられるのか・・・。

 

おまけに、私はかなり偏食です。先ほど書いた食生活を見てもらえれば一目瞭然ですが(苦笑)
加えて、私は大の納豆嫌い、野菜もほぼ嫌い(トマトは好き)、ジャンクフードは大好き、お菓子大好き。

 

そういう人間だったんですが、今ではクッキングアプリ片手に下手なりにも料理するようになったので、今までの私からすると相当な進歩ではないかと思っています。

 

納豆は今でもダメなんですけどね。どうしてもにおいが・・・・・・。
しかし野菜はきちんと食べるようになりました。おいしさがわかるようになったんですかね?ピーマンとかナスとか絶対食べなかったのに。

 

もし結婚してなかったら、たぶん今でも料理することなくマクドとかお菓子とかばっか食べてたんだろうなと思います(笑)

 

まだまだ料理ビギナーですが、いろいろ挑戦していけたらなと思います。

 

やる時は、やる

今週のお題「やる気が出ない」ということで、今日はお題について書きます。

 

やる気ね・・・出ないですよね(笑)
やらないといけないことはたくさんあるのですが、梅雨入りが近いせいもあってか雨の日が多くて、それもあってかなかなか気持ちも上がりません。

 

部屋の片付け

最後に掃除機かけたのは一体いつなんだろうというくらい、いま部屋の中がめちゃくちゃです・・・。

 

夫も私もなかなか片付けられない人間でして。
モノはあちこち散らばってるし、脱いだ衣類はそのへんに放置、冷蔵庫から出したら出しっぱなし(これは夫のみ)、本は積み上がっていくばかり(私のみ)。

 

休日に「さぁ今日こそ掃除しよう!」と思っても、部屋の状態を見た瞬間に一気にやる気なくします(笑)

 

ちなみに、いま住んでいる家には4年ほど前に引っ越してきたのですが、その時の荷物もいまだに全部出していないという状況です。こりゃもう末期ですね・・・。

 

部屋が片付いてないとなると、いよいよ奴が出てくるわけです。季節としても、ちょうど見かけるようになる頃ですね。Gという名の人類の敵を・・・。
さっそく昨日現れました。私が一人で大騒ぎする中、夫は至って冷静に素手でバシッ。

 

・・・ほんと嫌な季節になりました。

 

家事全般

家事ってほんと、めんどくさいですよね。

 

あ、料理はそれなりに楽しんでやってます。得意ではないけど。一番めんどくさいのが、その後の食器洗い・・・。
溜めておいて後からやるとなるともっと面倒になるので、食器洗いだけは食後にすぐやるようにしています。これは夫も協力してくれているので、助かってます。

 

後回しにしがちなのは、いろんな箇所の掃除ですね(やっぱり)

 

風呂場もトイレも洗面台も、汚さの我慢の限界が来るまで掃除しません。
そうは言っても、夫と私とでは耐えられる汚さの限界も違うので、私の方が「ホンマにもうこれマジでアカン」と思ったらさすがに掃除します。

 

・・・こう書くと、このブログを読んでくださってる方、きっとドン引きされてますよね(苦笑)
秋月さんて、もしかしてものすごく不潔なのでは・・・?と思われても仕方ない書きっぷりですが、シャワーはきちんと浴びてます(笑)

 

どこもかしこもカビだらけ!ということはないです。ギリギリまでやる気が出ないだけなんです。どうか引かないでください。
部屋の片付けにしても家事全般にしても、ほんとギリギリ限界が来るその時までやらないだけで、やる時はやるんです。

 

仕事

まぁ、仕事というものはいつでもやる気は出ないものだと思っています(笑)

 

長期連休ともなると、休み明けのやる気の無さがハンパじゃないです。
なんでしょうね、なんで「仕事」ってだけで、こんなにやる気出ないんでしょうね。

 

「好きでやっている仕事」と「仕方なしにやっている仕事」だとモチベーションも当然違ってくるとは思うのですが、好きなこと・やりたいことを仕事にしている人でも、やる気が出なくなることってあるんでしょうか。

 

気になります。

 

・・・以上、ダラダラと綴ってみました。

 

やる気のない毎日でも、読書とブログは楽しんでやっております。
読んでくださっている皆様、いつも本当にありがとうございます!

 

読書感想:『白いイルカの浜辺』

ジル・ルイスの『白いイルカの浜辺』(評論社)を読み終わりました。

 

作者について

イギリスの作家。おさないころから野生の生き物に興味を持ち、大学では獣医学を専攻。卒業後、獣医として働くかたわら、野生動物との出会いを求めて、さまざまな国を旅行する。バースの大学で子どもの本の創作を学び、執筆活動を開始。

引用元:ジル・ルイス『白いイルカの浜辺』(評論社)

  

概要

けがをしたイルカを守りたい。その気持ちが、やがて「海を守りたい」という熱い想いへとつながってゆく――生きるために底引き網漁を解禁すべきだとする漁師たちと、海を守るために立ち上がった少女カラとの闘いを描いた物語です。

 

内容紹介

カラの母さんは、海洋生物学者です。しかし、野生のイルカの調査中に行方不明になったまま、居場所は掴めていません。カラは、いつか母さんは必ず戻ってくると信じていました。
カラと父さんは、ベヴおばさんの家に居候させてもらっています。ベヴおばさんの他にトムおじさん、娘のデイジーが一緒に暮らしていました。

 

「モアナ号」。そう名付けられたヨットは、カラと、父さんと、母さんのものでした。
しかし、母さんが行方不明になり、借金がふくらむばかりで頭を抱えていた父さんは、モアナ号を売りに出す決意をします。
カラは、モアナ号が売りに出されるなんて信じたくなかったし、別の人間がこの海でモアナ号を走らせるところを見るのはもっと嫌でした。

 

ある日、モアナ号を買ってもいいという人が現われ、週末に会うことになりました。アンダーセンという名のその人には息子が一人いました。
大きなコンピューター画面を見つめている頭が椅子ごと振り返ると、カラと男の子は互いに顔をしかめました。

 

彼の名は、フィリクス。カラの学校に新しく転校してきた生徒で、カラは数日前に学校ですでに会っていたのでした。
フィリクスは、身体に障がいを持っています。その日の学校帰り、デイジーと一緒に立ち寄った店で、カラはフィリクスがジェイクとイーサンに絡まれているのを発見しました。たまらずデイジーが彼らを追い払いフィリクスに声をかけましたが、フィリクスに冷たくあしらわれてしまい、デイジーは彼のことが一気に嫌いになってしまいました。

 

その経緯があったからか、カラは最初とても不快な気持ちになり、表情に露骨に出てしまいました。しかし、いざ話してみると、フィリクスは実はそんなに悪いヤツじゃないということがわかります。
フィリクスはコンピュータが好きでずっとネットゲームばかりしているような子でしたが、カラとの出会いがきっかけとなり、やがてセーリングに興味を持つようになります。

 

フィリクスはとてもじょうずに泳ぎました。実のところ、カラは身体に障がいのあるフィリクスが少しでも泳げるとは思っていなかったのです。
モアナ号の上で、カラが言いました。

 

「あと一週間もすると、底引き網漁が解禁になるの。そしたら、海岸沿いのあちこちからトロール船がやってきて、ホタテ貝をとるために金属の歯で海底を掘り返す。こそげとられるのは、ホタテ貝だけじゃないの。さっき見た世界が、ごっそりこそげとられちゃうんだ。きっと何も残らなくなっちゃう」

引用元:ジル・ルイス『白いイルカの浜辺』(評論社)、114ページ

 

だったらやめさせればいいと言うフィリクスに、カラは答えます。

 

「言うだけならかんたんだけど、何ができる?ゴムボートに乗って抗議すればトロール船が引き返していくわけ?」私はフィリクスをにらんだ。
 フィリクスは髪をタオルでふきながら言った。
「わかんないよ。でも、それがほんとに大事なことだとすると、おれなら、戦わずにあきらめたりはしないね」

引用元:ジル・ルイス『白いイルカの浜辺』(評論社)、114ページ

 

しかし、ダギー・エヴァンズという漁師のことを知らないからそんなことが言えるのだと、カラは首を縦に振ろうとしません。
その人物が誰なのか、何があったのかを知りたいフィリクスに対し、カラは過去のことを話し始めます。

 

ダギーはジェイクの父親です。ある出来事からカラの母さんのことをとても憎んでおり、カラのことも嫌っているのでした。ジェイクがカラに嫌がらせをするのも、そのことが原因なのでした。

 

帰宅後、アンダーセンさんから連絡がありました。モアナ号は買いたくなくなった、と。当初は買いたがっていたが、フィリクスの話を聞いて考えが変わったとのことでした。
カラは、笑みが浮かんでくるのをおさえることができませんでした。少なくとも、今はまだモアナ号は私たちのものなのだから。

 

ある日の放課後、カラが小さな入り江まで行ってみると、白いイルカが岸に乗り上げているのが見えました。まだ子どものイルカです。よく見ると、けがをしているようでした。
近くに母イルカがいるのはわかりましたが、カラはどうしたらよいかわかりません。
途方に暮れていると、フィリクスの姿が見えました。フィリクスの後から、アンダーセンさんもこっちに向かってきているようでした。

 

駆けつけたボランティアのカールとグレッグはイルカの状態を見た瞬間、わかってしまいました。

 

「カラ、このイルカは重傷を負っている。こんなふうでは魚をとることもできないし、お母さんのおっぱいも吸うことができない。海にもどしたら、死んでしまうだろう」

引用元:ジル・ルイス『白いイルカの浜辺』(評論社)、138ページ

 

獣医が到着したら安楽死させてやることがイルカのためだと言うカールに、カラも負けずに主張します。このイルカのお母さんが、ずっと海で待っているのです。しかし、海にもどすことは、安楽死させるよりももっと残酷なことなのでした。

 

なんとかしてイルカを救いたいカラは、イルカにぴったりな場所があると伝えます。アンダーセンさんも、フィリクスも、一緒になってカラの味方をしてくれました。
カールはため息をつきつつも、やれるだけのことはやってみようと、カラの意見に同意します。

 

しかし、状況は好転しませんでした。イルカはなんとかもちこたえてる状態だという。たとえ良くなったとしても、明日までに母イルカが現われなければ、野生で生きていくことは難しいだろうとのことでした。
母イルカを探しに行こうと父さんに懇願するカラ。しかし、父さんは、時間がないと言ってなかなか動いてくれません。

 

「明日は、シフトが三つも入ってるんだよ」
「だけど、お母さんイルカをさがさないと」と、私。「見つけないと。見つからなかったら、子どものイルカは安楽死させられちゃうんだよ」
 父さんはティッシュで口をぬぐって言った。
「いいかい、カラ。今日はカールがさがしまわってた。アンダーセンさんとフィリクスもだよ」
「でも、この湾のことは。あたしたちがいちばんよく知ってるじゃないの。あたしたちなら見つけることができるよ」
「明日は時間がないんだ」父さんは、ティッシュをおくと、自分のお皿をおしやった。
「このごろは、いっつも時間がないんだよね」私はフォークでポテトをつきさしながら言った。
 父さんは私をにらんだ。
「そんな言い方はないだろう、カラ。お金をかせながないといけないんだからな」
「でも、お母さんイルカもさがさないと」
 父さんは立ち上がり、ポテトをくるんであった紙をゴミ箱に入れた。
「海は広いんだよ、カラ。母イルカは、どこにいたっておかしくない。いったいどこをさがそうっていうんだい?」
 私は自分のお皿をおしやって言った。
「父さんは、あきらめちゃったんだね。ほかの人みたいに」

引用元:ジル・ルイス『白いイルカの浜辺』(評論社)、170~171ページ

 

その日の真夜中、カラは一人で海に出ました。そしてついに、母イルカを見つけます。母イルカもまた、子イルカがどこにいるか突き止めたようでした。

 

翌日の早朝、デイジーとともにプールに向かったカラは、母イルカが現われたことを知らされます。もちろんカラも知っていましたが、口には出しませんでした。
白いイルカを見たデイジーは、名前をたずねます。しかし、名前はありません。人間とはふれあわない方がイルカのためなのだと言う獣医の話も聞かず、デイジーは白いイルカに「エンジェル」と名付けました。

 

名前があった方がいいとは、最近たずねてきた人物にも言われたようでした。その人物とは地方新聞の記者です。カール曰く、このイルカに関心を持つ人が多くいるとのことでした。

 

カールは、これをまたとないチャンスだと捉えました。海洋生物レスキュー隊の活動や、海の生き物がどんな危険にさらされているかを、人びとに知ってもらえると思ったのです。
フィリクスも賛成でした。もうすぐ解禁されてしまう底引き網漁によってサンゴ礁がどれほど痛めつけられてしまうかを、イルカを見に来た人たちに話すべきだと言います。

 

カラは大反対でした。イルカを見せ物にしている、イルカを見せなくてもサンゴ礁のことを考えてもらわないといけない、と頑なに拒否します。
しかし、フィリクスには考えがあるようでした。

 

「インターネットを使うんだよ」とフィリクスはにやっと笑いながら言った。「ウェブサイトや、SNSのサイトや、ブログやツイッターなんかを使って、おおぜいの人を巻きこむんだよ」
「うまくいくはずないよ」私は首を横にふった。
 フィリクスは片手をあげて言った。
「どうして、カラ?少なくとも、試してみるべきだよ。サンゴ礁があらされるのを止めるための署名をネットで集めることだってできるんだ」
「むだよ」と、私は言った。「好きなだけおバカなブログをやってみればいいし、署名もどっさり集めればいいけど、そんなことしてもうまくいかないと思うな。トロール船の持ち主にサンゴ礁を救おうと思ってもらわないかぎり、だめよ」

引用元:ジル・ルイスの『白いイルカの浜辺』(評論社)、190ページ

 

学校へ着き、休み時間が終わる頃、カラはフィリクスに呼び出されました。カーター先生が自分たちと話がしたいという。
カラがうんざりしながら部屋に向かうと、そこには他にもクラスメートたちの顔が見えました。
フィリクスは、エンジェルのことをみんなに話し、学校全体でとりくむことができないかとカーター先生に提案していたのです。

 

カラは信じられませんでした。私たちが見つけたイルカなのに・・・なぜフィリクスが勝手にみんなにも分け前を与えようとしているのか。
サンゴ礁を救うためにはできるだけ多くの助けがいると主張するフィリクスに、カラは頑として譲りません。このままでもできる、手伝いは足りている――。
みんなも負けていません。この湾を守りたいという想い、底引き網漁が解禁になることを望んでいないのは、みんな同じなのです。これは誰にとっても、大事なことなのでした。

 

半信半疑のカラに、フィリクスが言います。

 

「うまくいくようにやるのさ、カラ。一週間もしないうちに禁止が解ける。おれたちにできることは、これしかない」

引用元:ジル・ルイスの『白いイルカの浜辺』(評論社)、194ページ

 

集会までの残り期間はわずかなものでしたが、その間にカラたちはできるだけのことをしました。集会には大勢の人が集まり、カールの話が始まりました。
カールはグラフなどを使ってサンゴ礁を救うプロジェクトの説明をしましたが、しかしみんなが興味のあるのはエンジェルのことばかりで、だれもちゃんと聞いてくれません。

 

カールの話が終わり、代わりに立ち上がったのはダギー・エヴァンズでした。ダギーは壇上に上がると、話し始めました。
その内容は、底引き網漁がどれほど重要かであることを述べたものでした。この町は漁業で成り立っていること、サンゴ礁はそんなにすぐにはなくならないこと、新鮮なホタテ貝を今後も口にしたいのなら漁師たちを支えてほしいこと、禁止のための署名をしないでほしいこと。

 

パラパラと拍手があがります。ダギーが勝ち誇ったように笑ったとき、さえぎる者がありました。
フィリクスの声でした。その手には、イルカのメモリースティックが握られています。それはカラがずっと大事にしていた母さんの持ち物で、パスワードがかかっているためにずっと中を見ることができないでいたのでした。

 

フィリクスによってついにパスワードが解除されたそのメモリースティックには、とても大事なことが残されていると言う。
すでに講堂を出ようとしている人もちらほらいましたが、このチャンスを逃してはなりません。フィリクスに促されるままにカラは話し始め、時間を稼ぎました。

 

やがてスクリーンに映し出されたのは、海の中に広がる大自然でした。吹き込まれているのは、カラの母さんの声です。しかし突然、引き裂くような音が講堂に響いたかと思うとスクリーンの場面は変わり、破壊し尽くされた海底の様子が映し出されていました。

 

「私たちが海を守らないかぎり、あれはてた不毛の地しか残りません。私たちは海の農夫ではないのです。種をまかずに刈りとるだけなのですから」

引用元:ジル・ルイス『白いイルカの浜辺』(評論社)、210ページ

 

集会が終わり、署名はどっさり集まったようでした。漁師たちの署名については、まだわかりません。
そうこうしているうちに、エンジェルを海にもどす時が来ました。

 

翌日、エンジェルは母イルカの元に静かに帰っていきました。
その日の新聞では、署名運動について書かれていました。600以上の署名が集まったのです。漁師さんたちも、賛成してくれたのでした。

 

しかし、ダギーは新聞を見て怒り狂っていました。真夜中の潮に乗って漁に出ると言い張っています。
結局なんにもならなかったと言うカラ。しかし、エンジェルを救ったことだけは意味があったと、フィリクスは励まします。

 

二人がモアナ号に向かうと、そこにはジェイクとイーサンがいました。二人をどかそうとするカラですが、カラの父さんがモアナ号をダギーに売ってしまったことを聞かされます。
父さんとしては、すべてはカラのためにしたことだったのです。しかし、カラには信じられませんでした。

 

やがてダギーがホホオジロザメを捕まえたというニュースが港じゅうを駆け巡りました。とりあえず行ってみることにしたカラとフィリクス。
しかし、それはホホオジロザメではありませんでした。ジェイクがにやにやしながらカラに自慢げに話しかけます。
たどり着いた港でカラとフィリクスが見たのは、エンジェルのお母さんの死体でした――。

 

町ではセーリングのレースが行われることになっていましたが、嵐が来ることもあり、その日レースは中止になっていました。
しかし、ジェイクとイーサンは、この嵐の中で勝負をしようとカラとフィリクスに持ちかけてきます。

 

カラとフィリクスの制止も聞かず、ジェイクとイーサンは荒れ狂った海にモアナ号を出します。
このままにしてはおけないと、ヨットで後を追いかけるカラとフィリクス。イーサンが海に投げ出されるのが見えました。ジェイクも必死でモアナ号にしがみついています。
自分たちも波に呑まれそうになりながらも、二人はなんとか無事にジェイクとイーサンを救出することができました。

 

・・・カラが目を開けると、すでに夕方になっていました。じっと自分を見つめるデイジーに連れられておばさんたちの寝室に行ってみると、そこには毛布にくるまれた赤ちゃんがいました。
デイジーに妹ができたのです。名前をたずねるカラに、デイジーが答えます。

 

「あたしが選んだの。モーって呼ぶことにしたんだ。モアナを短くしたんだよ。でも、あたしたちにはモーでいいの」
 私の目に熱い涙がうかんできた。

引用元:ジル・ルイス『白いイルカの浜辺』(評論社)、279ページ

 

その後、カラが父さんとともに日の光の中へ出るとダギー・エヴァンズが小道をやってくるのが見えました。ダギーはカラに向き直ると、静かに言いました。

 

「あんたがいなかったら、うちの息子は死んでたよ」
 私は父さんを見、それからダギーを見てつぶやいた。
「あたしだけの力じゃないです」
 ダギーは顔をしかめながらつづけた。
「ジェイクがおかしなことも言ってたよ。白いイルカに命を救われたとな。イルカが下に来て体を持ちあげてくれたというんだ」
 (中略)
「真実はいつも目の前にあったんだがな」ダギーが言った。「おれは見ないようにしてたんだ」

引用元:ジル・ルイス『白いイルカの浜辺』(評論社)、280ページ

 

そしてダギーは、底引き網漁をやめる署名用紙にサインしたことをカラと父さんに告げました。それだけではなく、網にイルカがかからないような新たな漁法を試す書類にも、ダギーはサインしてくれたのです。

 

ダギーは、自分のトロール船に仕事の口があると父さんに紹介してくれましたが、父さんはすでに仕事が見つかったことをダギーに告げました。
カラと父さんが住む新しい家も決まり、そこに向かうとすでにたくさんの仲間たちが待ってくれていました。

 

カラには、ダギーの「真実はいつも目の前にあったけど、見ないようにしてた」という言葉を聞いて、わかったことがありました。
母さんが行方不明になった時、何があったか実際には知りようがないけれども、母さんはその夜に亡くなったんだということを。
モアナ号は嵐の夜に壊れてしまったけれど、父さんはまた二人で新しいのをつくろうと言ってくれました。

 

海の向こうに、イルカの群れが泳いでいました。その時、エンジェルが大きくとび上がるのを、カラは確かに見たのです。
去りゆくエンジェルを見つめながら、この物語は幕を閉じます。

 

感想

環境問題が叫ばれてから久しい年月が経っていますが、環境破壊は留まるどころかますます増えていく一方の時代になりました。

 

夫と車でドライブ中にふと外を見やると、そこらじゅうに目に付くものがあります。
道路脇に平然と捨てられている空き缶。飲みかけのペットボトル。明らかに食べかけのパン。木に絡まったビニール袋。川に捨てられた家電。
海の近くを走行することがあると、やはり無造作に捨てられたゴミたちの姿が目に付きます。

 

・・・当時と比べれば格段に環境への意識は高まっているものの、いまだこんなことが平然と行われていることも事実です。土を、森を、空を、そしてこの本の舞台である海を、人間は今でも汚し続けています。

 

この本のあとがきで、作者であるジル・ルイスは語っています。

 

 こわれやすい海が、私たちの見えないところ、知らないところで破壊され続けているのを知って、私はとてもこわくなりました。人間はいつになったら、気づくのでしょうか?波間をとび跳ねるイルカは、そのうちもういなくなってしまうかもしれないのです。私たちの食卓にも、そのうち魚は登場しなくなってしまうかもしれないのです。

引用元:ジル・ルイス『白いイルカの浜辺』(評論社)、291ページ

 

日本人は、「魚食の民」と言われています。(長崎福三『魚食の民』(講談社)より)
我々は、世界中のどの国の人たちよりも魚を愛し、魚を食する国民です。私自身も、肉よりも魚が好きです。
そんな大好きな魚が食卓から姿を消してしまったら、お寿司屋さんがなくなってしまったら・・・食べる楽しみがなくなってしまうとは言い過ぎかもしれませんが、やはり物足りなさは感じるでしょう。

 

こうした問題はそのスケールの大きさもあってどうしても他人事に思いがちだし、現にまだこうして普通に魚を食べることができている以上、なかなか身近な問題として考えることが難しいのは仕方のないことなのかもしれません。

 

しかし、魚食を愛するからこそ、目を背けてはいけない問題なのだと強く感じます。
じゃあそのためにどうするのか――当たり前のことしか言えないけれども、まずは自分にできることから少しずつ。やはりこれに尽きると思います。

 

ビニール袋をできる限り使わないとか、必要以上に水を使わないとか、できることはあるはず・・・。
小さなことかもしれないけれど、どんなに小さなことでも、それを積み上げていけばきっと大きな力になる――そう信じて、私自身ももっと普段から環境問題を意識していこうと思いました。

 

やっぱ泣くしかないですよね

ということで、昨日は金曜ロードショーで『タイタニック』の後編を観てました。

 

前回のブログでも書いた通り、タイタニックは実家のビデオで何回も観ました。内容も結末も知っているとはいえ、何度観ても毎回同じところで泣いてしまいます。

 

沈みゆく船上にありながらも、パニックを防ぐために音楽を奏で続ける楽士たち。
船の中を死に場所と定め、ベッドの上で抱き合いながら海水に呑まれてゆく老夫婦。
最期は紳士らしく死にたいと、正装した上からの救命胴衣の着用を拒否した男性。
運命を受け入れ、客室で静かに子供たちを寝かしつける母親。

 

・・・もう思い出すだけでも涙、涙です。

 

今回改めてこの映画を観て思ったのは、船ってこんなに簡単に沈んでしまうんだなと。あんなに巨大な船が、です。
流れ込んでくる水の勢いが本当に早すぎて、画面越しに観ていても恐怖でしかありませんでした。
「絶対に沈まない」ともてはやされていた船が、いとも簡単に沈む。自然を相手にしては、人間というのはこんなにも無力なんですね・・・。

 

人間の本質って、こういう非常時に如実に出てくるんだなということを思い知らされました。

 

我先に助かろうと押し合いへし合いする人びと。カネに物を言わせて助かろうとする者。ボートに乗りきらない乗客を差し置いて真っ先に逃げ出すタイタニック関係者――。

 

そりゃ誰だって死にたくないし、ましてやこんな形で最期を迎えたいなんて思う人はいないでしょう。
自分が乗った船が沈もうとしているんです。冷静でいられるはずがありません。

 

もしも実際に自分がこのような状況に遭遇したら――私だってきっと冷静ではいられないでしょうし、「何が何でも助かりたい」と思うでしょう。
さすがに、人を押しのけてまで自分が自分が、とはなりたくないと思ってはいますが・・・。

 

そんな中でも、「これが自分の使命」と最期まで職務を全うした人たちや、覚悟を決めて船内で最期を迎えようとした人たちの生き様が、とても美しく思えました。

 

これは現実にあった事故をもとにしている映画なので、決して美化してはいけないことはわかっています。
でも、人間という生きものが非常時にどういう行動を取るのか、その状況から抜け出すことができないとわかった時にどんな最期を選択するのか。大いに考えさせてくれる映画でもあると私は思っています。

 

タイタニック号の問題点の一つは、そもそも船の定員全員が乗れるだけの救命ボートが用意されていなかったことです。定員ギリギリまで乗せたとしても、助かる人数は全乗員乗客の半分――。
それをわかっていながらも、定員でギュウ詰めになったボートに乗るのは勘弁だと言った者もいたことが、私には腹立たしくて仕方ありませんでした。

 

後世に大きな教訓を残すことになったタイタニック

 

かなしい事故です。絶対にあってはなりません。まして、乗客の階級によって救助が後回しにされることなど、本来絶対に許されるべきことではありません。
救えたはずの、もっと多くのいのち――タイタニックと運命をともにした人びとのためにも、もう二度と、こんな事故は起きないでほしいです。

 

・・・長くなってしまいました。まとめるととにかく素晴らしい映画であることは間違いないです。
公開から25年経ってもファンが多いというのもうなずけます。

 

後編はパニック映画さながらの迫力あるシーンも多いので、私自身も画面を見ながら息を詰めたり束の間ホッとしたり、TVに釘付けでした。

 

CMを挟まずに通して観たくなってきたので、近々レンタルでもしようと思います。(きっと私と同じことを考えている人は多いはず・・・)

 

字幕か吹替か

先週の金曜ロードショーは『タイタニック』の前編でした。そして今週は後編が放送されます。

 

この映画と私との出会いは実家で、VHSで観てました。(ビデオテープのことです。時代を感じる・・・笑)
母が映画とか割と好きな人間なので、タイタニックのVHSが発売されるやいなやすぐに購入していて、それを私が何度もリピートして観ていました。

 

タイタニック――改めて説明するまでもないほど有名な映画ですが、超簡単にいうとタイタニック号で出会った貧しい画家の青年ジャックと上流階級の娘ローズの悲しい恋を描いた作品です。
ジャックとローズが船の舳先で両手を広げるシーンは、知らない人はいないくらい有名なシーンではないかと。

 

・・・こういう海外の映像作品を観るといつも思い出すのが、字幕派か吹替派かという議論です。

 

私はダンゼン字幕派です!

 

字幕だと文字が邪魔して映画に集中できないという話はよく耳にします。
しかし、海外の作品で登場人物たちが日本語を話しているのがどうにも違和感でしかなく・・・あくまで私の場合は、ですが。

 

英語の勉強がしたいからとか特別な理由があったわけでもないんですけど。
まぁ私は語学自体はもともと好きだし、母も字幕で観ることに抵抗のない人間なので、その影響もあるかもしれません。

 

こう書くとめっちゃ英語デキる人みたいに思われるかもしれませんが、母も私も英語は全然できません(笑)
なんとなく、字幕で観た方がよりその映画の世界観を感じられるのかなぁという気はしています。

 

ハリー・ポッター』シリーズは字幕の方が好みです。吹替版だと、呪文の効果がなんだか薄れてしまうような気がして・・・(笑)

 

とはいえ、何が何でも字幕じゃないとイヤ!というわけではなくて、金曜ロードショーとかで放送される海外モノはそのまま素直に吹替で観てます。
先週のタイタニックに始まって、今後の金曜ロードショーはしばらく気になる作品が目白押しなので、時間の許す限り観たいです。

 

タイタニックに話を戻しましょう。

 

公開当時は日本国中が「レオ様」フィーバーに沸いていたかと記憶しています。私のクラスメートの女の子たちも、みんな「レオ様」一色でした。

 

その当時の私は、「レオナルド・ディカプリオというカッコいい人が出ている映画」という程度の認識しかないガキンチョでした。
しかし大人になった今、改めて見てみると、世の中の女性たちが「レオ様」ってなるのも納得できる気がしました。

 

貧しいながらも心の優しい青年、いざという時に見せる男気、少年のような無邪気な笑顔、いかにも幸の薄そうな整った顔立ち・・・と来たら、こりゃ女性たちが落ちないわけがありません。

 

そんなレオ様も、すっかりイイお歳のダンディなおじさまになりました。
私は映画にそれほど詳しいわけではありませんが、昔から知っている人が今も活躍しているというのはやはり嬉しいモンですね。