行雲流水 〜お気に召すまま〜

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読書感想:『太陽と月の大地』

コンチャ・ロペス=ナルバエスの『太陽と月の大地』(福音館書店)を読み終わりました。

 

作者について

1939年セビーリャ生まれ。大学で歴史を学び教壇に立つが、1983年に教師をやめ、子どもの本の執筆活動に入る。民主化直後の1980年代のスペイン児童文学界の牽引役となった作家の一人で、スペインでは二十世紀を代表する児童文学作家と位置づけられている。

引用元:コンチャ・ロペス=ナルバエス『太陽と月の大地』(福音館書店

 

概要

舞台はスペイン――キリスト教徒の伯爵の娘マリアと、モリスコ(キリスト教に改宗したイスラム教徒)の農夫の息子エルナンドの悲恋を描いた物語です。彼らをとりまく事件や社会状況はすべて歴史的事実に基づいているとのことで、実在の人物も多数登場します。

 

内容紹介

 一四九二年、スペインではカトリック両王と呼ばれたイサベル女王とフェルナンド王が、それまでイスラム王朝が支配していたグラナダを制圧し、スペインをひとつの国としておさめるようになりました。それから数年間はうるわしい時代でした。新たな支配者となったキリスト教徒と敗れたイスラム教徒はそれぞれの信仰や習慣を持ちながら、おなじ土地で共に暮らしていました。
 しかし、キリスト教徒がしだいに権力に乗じて、強引で無理解な態度をとるようになると、イスラム教徒は恨みをつのらせ、とうとう一五〇〇年に反乱を起こしました。 
 以来イスラム教徒は、キリスト教に改宗するか、国を去るかの選択を迫られるようになりました。アフリカに逃れた者もいましたが、先祖代々暮らしてきた土地は離れがたく、改宗してその地にとどまった者もいました。
 また、それまでイスラム教徒は「モーロ」と呼ばれていましたが、キリスト教に改宗した元イスラム教徒は「モリスコ」と呼ばれ、彼らはそこから長く苦しい時代を生きることになります。一五〇〇年から、完全に国外に追放されることになった一六一一年までは、友情と怨恨、裏切りと忠誠が入り乱れた苦難の時代でした。

引用元:コンチャ・ロペス=ナルバエス『太陽と月の大地』(福音館書店)、7~8ページ

 

アルベーニャ伯爵の娘マリア(キリスト教徒)と、伯爵家の領民として暮らすエルナンド(モリスコ=キリスト教に改宗した元イスラム教徒)。
身分も宗教も違う二人ですが、幼い日からともに育ったこともあり、互いに恋心をもっていました。

 

ある夏、二人は穏やかな日々を送りました。ともに馬を駆り、語らい――それは安らぎに満ちた日々でした。

 

マリアと過ごした夏はエルナンドの心をはずませましたが、その日々はあっという間に過ぎ去りました。エルナンドはマリアとの美しい夏の日々を思い出しては、どこにいても気持ちが落ち着かず、なかなか心が晴れませんでした。

 

やがて秋が来る頃、グラナダでは不穏なうわさや憶測ばかりを耳にするようになりました。そのうわさとは、もうすぐモーロの習慣を禁じる勅令が出されるだろうというものです。
モリスコたちは結束し、キリスト教徒を目の敵にするようになりました。キリスト教徒とモリスコとの間の溝が日に日に深まる中で、ついに運命の1567年を迎えます。

 

その日――1月1日、グラナダの町でおふれが出ました。血相を変えて家の中に飛び込んでくるエルナンド。うわさの通り厳しいおふれなのかと問いかける母に、エルナンドが答えます。

 

「それ以上だよ。何もかも禁止だって。ぼくらの服装も風呂も、しきたりも祭りも。アラビア語をしゃべるな、金曜日も家の戸口を開けておけ、女は顔をベールでおおうな、あれもだめ、これもだめって。どこの広場も、怒る人や嘆く人でいっぱいだった」

引用元:コンチャ・ロペス=ナルバエス『太陽と月の大地』(福音館書店)、96ページ

 

その日の午後、エルナンドの父フランシスコも帰宅しました。その顔は、憤りで真っ青になっていました。
フランシスコは帰宅するやいなや妻に罵声を浴びせました。妻のアナは、最初からキリスト教を信仰していたのです。アナは泣き出しましたが、フランシスコはかまわず続けます。

 

「俺たちに押しつけられた教えを、おまえは元から信じていたのだろうが。それなら、なぜ泣く?祈れよ。おまえの信じるマリア様に祈ればいいだろう。家族の怒りと軽蔑からわたしをお守りくださいと」

引用元:コンチャ・ロペス=ナルバエス『太陽と月の大地』(福音館書店)、98ページ

 

・・・かねてからキリスト教徒に対して複雑な気持ちを抱いていたエルナンドの兄ミゲルは、この頃には山賊たちと行動をともにするようになっていました。

 

ある日ミゲルは、グラナダ中で大きな蜂起の準備が進められていることを家族に知らせに来ます。
しかしそれは家族の安否を気遣ったものではなく、どれだけの人間が武器をとるか、どれだけの人間がキリスト教徒と戦う決意があるかを見るためのものでした。

 

祖父ディエゴは、遠い昔にも起こった同様の出来事を思い返し、時がたてばこれほどの仕打ちはなくなるだろうと言う。
父フランシスコは、キリスト教徒への恨み憎しみでいっぱいになりつつもなかなか決心がつかず、自分が命を落とすことを恐れました。
弟エルナンドは、自分たちを守ろうとしてくれているキリスト教徒たちもいることや、相手がキリスト教徒だからというだけで憎むことはなく、最後まで武器をとろうとしませんでした。

 

かなしみと絶望の日々の中で、ディエゴは過去の思い出に浸りつつ、やがて息を引き取ります。

 

――マリアの祖父であるドン・ゴンサロとディエゴは、遠い少年の日に出会って以来の無二の親友でした。その頃のディエゴは、ハクセル・アベーン・ハメスというアラビア語名で生活していました。
彼らもまた宗教の違いはありました。しかし、それによって友情が壊れることはなく、どんな時でも苦楽をともにし、二人は生涯を通して親友であり続けたのです。

 

そのうちに、エルナンドの母アナも命を落としました。逃げた子ヤギを捕まえようと追いかけたところへ、アナが隠れ家をキリスト教徒に教えに行こうとしていると勘違いしたモリスコが矢を放ったのでした。
その後、ミゲルもまた、戦いの中で命を落とします。

 

この戦争で、多くの命が失われました。戦争はあまりにも理不尽で、残酷でした。
たとえ生き残ったとしても、ガレー船に送られて漕ぎ手となったり奴隷として売られていく者もいたのです。

 

エルナンドとフランシスコもまた、キリスト教軍の兵士たちに捕まってしまいました。囚人として、せりに出される二人。
その日マリアが広場で目にしたものは、苦しみと怒り、恨みと恥辱が同時に目に宿ったエルナンドと、屈辱ですっかり老け込んでしまったフランシスコの姿でした。

 

二人はマリアの父であるアルベーニャ伯爵によってせり落とされ、伯爵の城で暮らすことになります。
アルベーニャ伯爵もマリアも、エルナンドとフランシスコに対してこれまでと変わらぬ友情と信頼を示してくれました。

 

しかし、エルナンドにとっては、自分はせり落とされた奴隷でしかありませんでした。
ある出来事をきっかけに、マリアの前ではできる限り以前と同じように接するようにしましたが、伯爵一家が深く気にかけてくれればくれるほど、「自分は奴隷だ」という現実を突きつけられ、苦悩するのでした。

 

日々ふさぎこんでいくエルナンドになすすべの無いマリアは、とうとう伯爵にエルナンドを自由にしてくれるよう頼む決心をします。

 

伯爵はある日、エルナンドとフランシスコを部屋に呼び出しました。ろうで封印した封筒を取り出すと、フランシスコに渡しました。
その封筒の中には、二人の自由を証明する書類と、どこでも好きなところに行ける通行許可証が入っているのです。

 

しかし、奴隷の身分でなければ、グラナダの地にはとどまることはできません。
昔も今も変わらず二人のことを「真の友」だと思うからこそ、そばにいてほしいと思うからこそ、伯爵は二人を奴隷として買い取り、自分の家に置いたのでした。

 

エルナンドは、敬意と感謝を込めつつ、こう答えます。

 

「そのことはわたくしたちも、しかと承知しております。しかし人が自尊心を持てるかどうかは、ほかの者が自分をどう見るかではなく、自分が自分をどう思うかで決まるのです。伯爵がどれほどお心をかけてくださっても、わたくしはこの家で奴隷でした。公衆の面前で奴隷として買われた時から、自分を奴隷と感じてきたからです。ですからこうして今自由をいただいて、再び命をさずかったかのような心地がします。伯爵がわたくしのためにしはらってくださった三百ドゥカドは、いつまでかかろうと必ず耳をそろえてお返しします」

引用元:コンチャ・ロペス=ナルバエス『太陽と月の大地』(福音館書店)、156~157ページ

 

エルナンドとフランシスコはアフリカの地に旅立つことにしました。しかしマリアは、張り裂けそうな胸の悲しみを抱えていました。
ちょうど明け方に嵐が吹き荒れたこともあり、このまま船の出航がなくなればいい、船が壊れてバラバラになっていてくれればいいと、ひそかに期待もしました。

 

しかし、マリアの望みもむなしく、嵐はおさまり、船も準備万端整っていました。

 

エルナンドは、すべてを永遠に記憶に焼き付けるかのように、マリアの姿を眺めました。今ならまだひき返せる・・・その想いを振り払うかのように。

 

やがて船は出航しました。マリアの姿が遠くかなたになってからもなお、エルナンドは船尾に立ち尽くし、ただその一点をじっと見つめていました。

 

物語は、アフリカに渡ったエルナンドがマリアに宛てて出した何通かの手紙を紹介して幕を閉じます。

 

その手紙には、どんな時でも伯爵一家から受けた恩を忘れていないこと、キリスト教徒とモーロが少しでも理解し合えるようになってほしいこと、そしてマリアの幸福とやすらぎを心から願っていることが綴られているのでした。

 

感想

この物語は、キリスト教イスラム教をめぐる宗教戦争について描かれています。
これに限らず、宗教がきっかけで起こる戦争は世界の歴史の中で見ても数えきれません。

 

私たち日本人は宗教に対してどうしてもマイナスなイメージを持ってしまいがちですが、人間は本来誰もが「幸せになりたい」と望んでいるはずで、それを実現するための道しるべとして生まれたものが宗教だと私は思っています。

 

しかし、幸せになるために信仰するはずの宗教が、この物語のように数々の争いや不幸の元になってしまうなんて、あまりにもかなしい話です・・・。

 

信ずるものが違うというだけで、どうして人は争わねばならないのでしょうか。
キリスト教徒だろうとイスラム教徒だろうと、そしてまた仏教徒だろうと、何を信仰していようとも、大切な誰かを失う痛みは同じだし、流す血の色はみんな同じのはずです。

 

マリアとエルナンドのように、宗教間の争いによって愛する二人が引き裂かれてしまう物語は、きっと数え切れないほど存在するのでしょう。

 

人間が人間である以上、争いは避けることができないのかもしれません。
それでも、人が人を憎み、恨み、殺し合うような世界なんて、誰にとっても不幸でしかないし、何も残らないと思います。

 

こんなかなしい物語がもう二度と生まれることのないように、そして家族や恋人、友人――愛する人たちみんなが幸せに暮らせるように、心から世界の平和を祈ります。

 

とても深く、考えさせられる物語でした。

 

最後に、この物語のタイトルである『太陽と月の大地』について。私も気になっていました。なぜ「太陽」と「月」なのか。

 

その答えは、物語の中で書かれています。

 

「月の上に太陽がかかっている。その怒れる日ざしで月は粉々にくだけて海に落ち、遠い異国の浜まで波に運ばれていくだろう・・・・・・お若いの、太陽には注意おし。太陽はキリスト教徒の味方だ。毎日、太陽の強い日ざしが、青白い月の光を隠すのさ。モーロに寄りそう月をね」

引用元:コンチャ・ロペス=ナルバエス『太陽と月の大地』(福音館書店)、59ページ

 

月(三日月)がイスラム教のシンボルであることはよく知られていますが、先ほどの引用を見る限り、太陽はキリスト教と深い関係があるようです。
「太陽」と「月」に隠された意味を知ることで、よりこの物語を深く読むことができるのではないかと思いました。